読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

sakiblog

双極性障害Ⅱ型。只今リハビリ出勤中。まずはカテゴリから「双極性障害と診断されるまで」を読まれることをおすすめします。

診療待ちである。いつも予約の時間より一時間は遅れる。どうせ休職中の身であるから、時間は惜しくない。今日は何を話そうか、ゆっくり考えるための時間だと思っている。
本を読みながら時間を潰すという手もあるが、最近は活字があまり頭に入ってこない。他の方のブログを読むくらいである。大学生の頃は、あんなにSF小説を買い漁っていたのに、と考える。それらは本棚を未だ占領し続け、もう一度読まれるのを待っているかのようだが、それが叶うのはずいぶん先の話になるだろう。
そういえば、文学部の学生は、そろそろ卒論を書き始めた頃ではなかろうか。あたしはテーマが二転三転し、教授には少し迷惑をかけた。見切り発進で書き始めた卒論は、それはそれは酷いもので、捨ててはいないけれど、二度と読み返したくない。文法や構成なんかは最低限何とかなったが、ウイスキーを飲みながらハイテンションでキーボードを打ってできた代物である。我ながらうんざり。
このブログの文章も、過去に遡れば遡るほど、稚拙で感情的なので恥ずかしい。だが一方で、こういった文章はもう書けないのだなという寂しさもある。あたしがいつまでこのブログを続けるかは分からないけれど、しばらくはこんなスタイルで書き続けるのだろう。

双極性障害と診断されるまで 06

 初めての正社員。仕事は、天職だと思った。

 私が初めに配属されたのは、接客と事務処理を行う部署だった。アルバイトで鍛えた応対力で、失敗はたまにあるものの、おおむね上手くこなせていた。後輩ができた頃は、電話応対なら水山を見習え、とまで言われたほどだった。

 そして、外回りも行うようになった。その時指導役として付いてくれた女性の先輩は、厳しくも優しかった。さっさと仕事を終わらせ、空いた時間にカフェでお喋りをするのが楽しかった。先輩は、仕事だけでなく、この会社での渡り方も教えてくれた。育児休暇が整っている会社なので、子供が欲しいなら早くした方がいいよ、とのアドバイスも頂いた。

 私生活も充実していた。夫と結婚することになり、顔合わせや新居探し、結婚式といった幸せなイベントを積み重ねていった。夫の両親とも折り合いは良く、特に義母からは本当の娘のように扱われていた。

 仕事も結婚も順風満帆。次は子供かな、なんて、幸せな将来の生活ばかり描いていた。実際にそうなるものだと信じて疑わなかった。

 ところが、就職して三年半が過ぎた頃。仕事でのミスが多くなっていった。指導役の先輩は転勤し、後輩はどんどん増えて行った。もう新人とは呼べない段階に入っており、簡単な失敗なんて許されなかった。何より、自分自身がそれを許さなかった。

 うちの会社の繁忙期は二月から三月だ。残業こそあまりないものの、嵐のように仕事が舞い込んでくる。後輩たちの面倒も見なくてはいけない。ただただ、黙々と、働いた。不調は感じていた。それを隠すため、異常に明るく振る舞っていた。

 繁忙期が過ぎ、あたしはふと、立ち止まった。理由のない感情。消えたいと思う感情。道路を歩けば車に轢かれたいと思い、電車を待っていれば飛び込みたいと思う。これはおかしい、またあいつがやってきた、と判っていた。しかし、目を背けたのは、会社に迷惑をかけたくないという一心だった。今なら、休むことが結局は会社にとっていいのだと分かるけれど、当時は休んではならないという強迫観念に捕らわれていた。

 そしてとうとう、身体が動かなくなった。

 一日目、二日目辺りは自分から連絡をして、休むと言えたのだが、三日目くらいからそれもできなくなり、夫に電話をしてもらっていた。それで上司たちが心配して、家に来てくれた。どうやら夫に監禁されている可能性があるかと思われたらしい(今となっては笑いごとである)。近所のカフェへ行き、休んでしまったことを詫び、明日からは出勤すると答えたが、やはりそれはできなかった。それを見越していた夫は、診療所の予約を取っていた。そうして、H先生の診療を受けたのである。

初めて美容を気にするようになったのは、中学生くらいの時か。100均のマスカラやグロスを少ない小遣いを握りしめて買い、誕生日には脱毛器を買って貰った。眉毛も抜き出したのだが、やりすぎて今になっても生えてこない。自眉では大変みすぼらしいのだが、鬱の時はそのまま外出してしまう。外に出ることに全力を尽くすので、そんなの気にしている状態ではないのだ。
最近はかなり落ち着いてきたので、眉毛はもちろんアイラインも適度に描いている。リップも欠かせない。但し、デパコスなのはリップだけで、あとは薬局のプチプラばかりだ。どうも私の肌は安物の方が合うらしい。化粧水も散々色んなものを試したが、結局ビオレに落ち着いている。なので、アラサーにしては化粧品代がやけに安い。下手すると、夫の方が金かかってるかもしれない。
ともあれ、美容を気にすることができるまで回復できたのは本当に良かった。昨日、手続きの関係で出社したのだが、偉い人からは以前より若々しくなったと言って貰えた。ただ、体型はまだ戻っていない。増えるのは一瞬なのに、ほんの一キロ落とすだけでもかなり時間がかかる。復職時には、きちんとスーツが入るようになっていたいものだ。

双極性障害と診断されるまで 05

 普通の女の子ではない。その一言にグサリと胸を貫かれたまま、あたしは二十歳を迎えた。

 それからは、沢山の男性と闇雲に付き合ったり別れたりを繰り返した。身体だけの関係の人も居た。大学の授業には出ていたものの、カウンセリングにも行かなくなり、サークルも辞めてしまった。

 このままではいけないと思ったのは、就職を控えた大学三年生のとき。リーマン・ショックが起こり、何の取り柄もない普通の大学生は内定を取れるはずもなかった。あたしは資格取得に向けての勉強を始め、忙しい毎日をスタートさせた。安定した職を手に入れることさえできれば、病気も治ると思った。実際、忙しさのせいか、症状は安定するようになった。

 しかし、大学卒業までに内定を取ることはできなかった。あたしは以前から続けていたバイト先にフリーターとして残り、就職活動を続けることにした。この辺りの日記は残されていないが、自己分析のためのノートはいくつかあった。長所は明るいところ、短所は焦って失敗することが多いところ、と書かれていた。それはあながち間違いでは無かったと思う。

 この頃、今の夫と親密になった。同じバイト先のお兄さん、と関係から、二人きりで遊びに行く仲となった。病気のことももちろん伝えていたが、夫はまるで臆することなく向き合ってくれた。

 フリーター生活を一年続け、またもや正社員の職に就くことはできなかったが、市役所の臨時職員に受かった。非正規とはいえ、初めての就職である。給料は驚くほど少なく、実家暮らしでなければ到底生活できない程度であったが、待遇は良く、きちんと有給休暇も取らせてくれた。

 それからようやく、今の職場と巡り合い、夢にまで見た正社員という地位を手に入れた。同期や上司にも恵まれ、このまま職場にいてさえいれば、幸せな将来を掴むことができると信じて疑わなかった。

双極性障害と診断されるまで 04

 2006年4月、あたしは大学生になっていた。
 この頃からノートに日記をつけはじめたので、ところどころ参照しながら、当時のことを振り返ってみる。

 あたしは高校の知人が誰も居ない大学に入った。今までの人間関係を断ち切り、全く新しいスタートを切りたかったからだ。その一歩として、あたしは軽音サークルに入った。以前から興味のあった楽器を始めてみたかったのだ。
 自分を知っている人が居ない、という環境は、あたしにとって素敵なものだった。軽音サークルの部室に居る人であれば、誰彼構わず話しかけ、仲良くなれそうな人を探していた。今思えば、この時期は躁転してしまっていた気がする。余りにも不躾で、余りにもテンションが高かったから。
 一応、自分の変化を自覚してはいたらしい。5月の日記にはこうある。

「大学に入った途端に、あたしの性格は変わった。知らない人に自分から話しかけた事なんて、今まで一度も無かった。知らない人ばかりという環境は、普通は不安になるものだけど、あたしにとってはそれが凄く良かった。あたしが何をしていようが、誰も気に留めない。もう気を張って演技する必要も無い。」

 あたしは素晴らしい日々を送っていた。勉強も楽器も楽しかったし、バイトも始めた。高校時代の友人とはまだ繋がっていたが、そう頻繁に会うわけでもない。それに何より、初めての恋人ができた。同じ軽音サークルの一年生だ。彼と過ごす時間が楽しくて、文字通り夢中になっていた。
 しかし、初めての恋人との関係に、あたしは段々と悩むようになった。いつか見捨てられるんじゃないかと不安になり、癇癪を起こした。相手の都合も考えず、自分を一番に優先してもらわないと気が済まず、それが叶えられなかったときはリストカットをした。典型的なボーダー(境界性人格障害)の症状である。

 初めは整然としていた日記の字も、乱れ始める。

「こわい。こわい。たすけて。あいたい。こわい。こわい。」

「いくら血を出したら死ねるんだっけ?」

「もうダメだ」

 ところが、恋人に優しくされた途端、文字も文体も一変。いかに幸せなデートをしたかということが書き連ねられている。あたしは恋人を振り回していたが、自分自身も振り回していた。

 一年生の終わり頃になると、パニック発作も起きるようになった。朝、駅に向かうのがこわい。電車に乗っていると息苦しくて立っていられない。そんな思いをブログに打ち明けていたところ、とある方から心療内科を薦めて頂いた。あたしはその紹介通り、K先生の所へ行ってみた。2007年6月のことである。

 K先生は年配の女性で、非常に暖かな方であった。初めての診察後、カウンセリングの必要があると言われ、あたしは様々な思いを抱えていた。

「カウンセリングする意味あるのかな。だって自分のどこが病んでいるのか、自分でもうまく説明できない。病気だってことに逃げていない?病気だと言って周りを納得させようとしていないか?」

 カウンセラーは30代か40代くらいの綺麗なお姉さんだった。割とストレートに思ったことを言えていたようで、しょうもないことで父母に叱られたことも話していた。そういえば不眠で、そういえば過食嘔吐もしていることをその場で打ち明けることもできたし、あたしにとって有意義な時間であった。

 ところが、恋人にとってはそうではなかった。カウンセリングをしても、すぐに効果が出るわけでは無い。相変わらずあたしは恋人を傷つけていた。それに、彼女が心療内科に通っているということを、都合悪く思っていたのだろう。

「俺、普通の女の子がいい」

 そう別れを告げられた。

母の手術は朝8時半からだった。かかる時間は3時間半と聞いていたから、丁度正午くらいに終わるのだなぁと思いながら、父と家族待ち合い席に着いた。
待ち合いには、小さな液晶テレビと、申し訳程度の古雑誌が置いてあった。あたしも父も暇潰しの道具は持ってきていたから、それらはちらりと見てみただけ。居心地は悪くは無かった。
父とは折り合いが悪いわけではなかったが、単に都合がつかずに会えないことが多かった。しかも、母がおらず二人きりとなると、あたしの結婚以来初めての機会であった。
父はこれまでの抗がん剤治療を振り返っていた。あたしに手帳を見せながら、これが最初の検査の日、これが投薬を始めた日……と。母の乳がんが発覚して6ヶ月。父にとってはどんな道のりだったのだろうか。
手帳には、祖父母の家のことも書かれてあった。祖母が亡くなり、一人になった祖父の介護の手続き関係を、父はいくつか引き受けていた。エアコンや空気清浄機といった家電類も父が用意したのだが、祖父は使い方がまるで解っておらず、コンセントを抜いてしまうのだと嘆いていた。
ところでサキはいつ復職するんや、と聞かれたので、ありのままを伝えた。主治医からは来年1月からのオーケーが出たが、会社からは4月からと言われており、まだ調整がついていないと。父はどちらの案に賛成するでも無く、休職制度を使うことに後ろめたさを感じすぎると上手くいかなくなる、割りきって利用しろ、というようなことを言ってくれた。そういえば、父はうつ病になっても休職しなかった。もう10年以上前のことだ、まだ制度が整っていなかったのだろう。妙な言い方だが、今の時代に病気になってまだマシだった。双極性障害という単語は浸透していないが、精神病について世間が比較的寛容になりつつあるから。
そうして話し込んでいると、時間の経つのは早かった。正午過ぎに医師に呼ばれ、手術の結果を聞いた。無事に成功していた。
運ばれてきたばかりの母の顔が、死人のようで一瞬ぎょっとしたが、足をパタパタ動かしていたので安心した。しばらくして、話せるようになったときに、手術中は夢を見た?としょうもないことを聞いた。見たような気がする、と母は微笑んだ。

双極性障害と診断されるまで 03

 初めてリストカットをしたのは、高校生のときだった。

 高校でも運動部に入ったあたしは、またもや下働きをしていた。その競技に愛着なんて無かったし、向上心も無かった。ただ、友人たちから見離されたくなかっただけ。居場所を確保しておきたかっただけ。高校生にもなるとスクールカーストはよりキツいものになっており、運動部のサキちゃん、という所属が無ければ、あたしみたいに容姿も学力も良くない生徒は生き残っていられなかった。

 毎日毎日、部活を辞めたくて仕方が無かった。けれど、ニコニコ顔で何でもない風を装うことが身に着いてしまったあたしは、結局それをしなかった。そして、仮病か何かで休むこともできなかった。部活では、過呼吸になっても、捻挫をしても、練習に出てくることが評価されていた。あたしは無駄に丈夫なので、そもそも身体に異変が起きるということが無かった。身体を壊しても練習している友人を見て、行きたくないのはただの甘えなんだと自分に言い聞かせた。

 それと同じことを、あたしは社会人になっても続けていた。多少熱が出たくらい、頭痛があるくらいでは休まない。休めない。会社を休むには、もっと身体が大変なことになって、それなら休めと言われる程の大惨事でないと駄目だと。そんなわけで、車道にフラフラ飛び出しそうになったり、ホームの向こうを見つめていたりした。実行しなくて本当に良かった。

 実際の所、リストカットをした理由というのはよく覚えていない。今の自分が考察するに、誰かに注目されて、構って欲しかったのだと思う。こんなことをするなんて、辛かったね、痛かったね、もう部活も学校も休んでいいんだよ。そう言われたかったのだと。しかしあたしは、リストカットの痕を誰にも見せなかった。やった後で、どうにも恥ずかしい気持ちに襲われたからだ。弱い自分がここにいるのだと、認めたくなかった。

 それから、OD(オーバードーズ)もした。父の睡眠薬を勝手に飲んだのだ。しかし、ごく少量だったので、一定時間幻聴に悩まされるくらいで済んだ。不思議と父に叱られた記憶は無い。悲しまれたような気はするが、ハッキリ覚えていない。

 どんどん自傷行為が増えていく中、自殺や精神病などの暗い知識も増えていった。それは言わずもがな、インターネットを自由に扱うようになったからだ。同じように自傷行為をしている人のホームページを見て、多少なりとも安心した。自分より症状の重い人を見たときは、まだマシだと優位に立った気もした。

 高校三年になり、部活を引退してからは、とりあえず大学受験の勉強を始めた。周りの友人は、美容師やネイリストになりたいと言い、専門学校を受けていたが、あたしは特に目指す道や夢なんて無かったのである。そのことについては当然のように馬鹿にされたが、他に行くあてもないので、いつも通りの笑顔でやり過ごしていた。