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sakiblog

双極性障害Ⅱ型。只今リハビリ出勤中。まずはカテゴリから「双極性障害と診断されるまで」を読まれることをおすすめします。

双極性障害と診断されるまで 05

 普通の女の子ではない。その一言にグサリと胸を貫かれたまま、あたしは二十歳を迎えた。

 それからは、沢山の男性と闇雲に付き合ったり別れたりを繰り返した。身体だけの関係の人も居た。大学の授業には出ていたものの、カウンセリングにも行かなくなり、サークルも辞めてしまった。

 このままではいけないと思ったのは、就職を控えた大学三年生のとき。リーマン・ショックが起こり、何の取り柄もない普通の大学生は内定を取れるはずもなかった。あたしは資格取得に向けての勉強を始め、忙しい毎日をスタートさせた。安定した職を手に入れることさえできれば、病気も治ると思った。実際、忙しさのせいか、症状は安定するようになった。

 しかし、大学卒業までに内定を取ることはできなかった。あたしは以前から続けていたバイト先にフリーターとして残り、就職活動を続けることにした。この辺りの日記は残されていないが、自己分析のためのノートはいくつかあった。長所は明るいところ、短所は焦って失敗することが多いところ、と書かれていた。それはあながち間違いでは無かったと思う。

 この頃、今の夫と親密になった。同じバイト先のお兄さん、と関係から、二人きりで遊びに行く仲となった。病気のことももちろん伝えていたが、夫はまるで臆することなく向き合ってくれた。

 フリーター生活を一年続け、またもや正社員の職に就くことはできなかったが、市役所の臨時職員に受かった。非正規とはいえ、初めての就職である。給料は驚くほど少なく、実家暮らしでなければ到底生活できない程度であったが、待遇は良く、きちんと有給休暇も取らせてくれた。

 それからようやく、今の職場と巡り合い、夢にまで見た正社員という地位を手に入れた。同期や上司にも恵まれ、このまま職場にいてさえいれば、幸せな将来を掴むことができると信じて疑わなかった。

双極性障害と診断されるまで 04

 2006年4月、あたしは大学生になっていた。
 この頃からノートに日記をつけはじめたので、ところどころ参照しながら、当時のことを振り返ってみる。

 あたしは高校の知人が誰も居ない大学に入った。今までの人間関係を断ち切り、全く新しいスタートを切りたかったからだ。その一歩として、あたしは軽音サークルに入った。以前から興味のあった楽器を始めてみたかったのだ。
 自分を知っている人が居ない、という環境は、あたしにとって素敵なものだった。軽音サークルの部室に居る人であれば、誰彼構わず話しかけ、仲良くなれそうな人を探していた。今思えば、この時期は躁転してしまっていた気がする。余りにも不躾で、余りにもテンションが高かったから。
 一応、自分の変化を自覚してはいたらしい。5月の日記にはこうある。

「大学に入った途端に、あたしの性格は変わった。知らない人に自分から話しかけた事なんて、今まで一度も無かった。知らない人ばかりという環境は、普通は不安になるものだけど、あたしにとってはそれが凄く良かった。あたしが何をしていようが、誰も気に留めない。もう気を張って演技する必要も無い。」

 あたしは素晴らしい日々を送っていた。勉強も楽器も楽しかったし、バイトも始めた。高校時代の友人とはまだ繋がっていたが、そう頻繁に会うわけでもない。それに何より、初めての恋人ができた。同じ軽音サークルの一年生だ。彼と過ごす時間が楽しくて、文字通り夢中になっていた。
 しかし、初めての恋人との関係に、あたしは段々と悩むようになった。いつか見捨てられるんじゃないかと不安になり、癇癪を起こした。相手の都合も考えず、自分を一番に優先してもらわないと気が済まず、それが叶えられなかったときはリストカットをした。典型的なボーダー(境界性人格障害)の症状である。

 初めは整然としていた日記の字も、乱れ始める。

「こわい。こわい。たすけて。あいたい。こわい。こわい。」

「いくら血を出したら死ねるんだっけ?」

「もうダメだ」

 ところが、恋人に優しくされた途端、文字も文体も一変。いかに幸せなデートをしたかということが書き連ねられている。あたしは恋人を振り回していたが、自分自身も振り回していた。

 一年生の終わり頃になると、パニック発作も起きるようになった。朝、駅に向かうのがこわい。電車に乗っていると息苦しくて立っていられない。そんな思いをブログに打ち明けていたところ、とある方から心療内科を薦めて頂いた。あたしはその紹介通り、K先生の所へ行ってみた。2007年6月のことである。

 K先生は年配の女性で、非常に暖かな方であった。初めての診察後、カウンセリングの必要があると言われ、あたしは様々な思いを抱えていた。

「カウンセリングする意味あるのかな。だって自分のどこが病んでいるのか、自分でもうまく説明できない。病気だってことに逃げていない?病気だと言って周りを納得させようとしていないか?」

 カウンセラーは30代か40代くらいの綺麗なお姉さんだった。割とストレートに思ったことを言えていたようで、しょうもないことで父母に叱られたことも話していた。そういえば不眠で、そういえば過食嘔吐もしていることをその場で打ち明けることもできたし、あたしにとって有意義な時間であった。

 ところが、恋人にとってはそうではなかった。カウンセリングをしても、すぐに効果が出るわけでは無い。相変わらずあたしは恋人を傷つけていた。それに、彼女が心療内科に通っているということを、都合悪く思っていたのだろう。

「俺、普通の女の子がいい」

 そう別れを告げられた。

母の手術は朝8時半からだった。かかる時間は3時間半と聞いていたから、丁度正午くらいに終わるのだなぁと思いながら、父と家族待ち合い席に着いた。
待ち合いには、小さな液晶テレビと、申し訳程度の古雑誌が置いてあった。あたしも父も暇潰しの道具は持ってきていたから、それらはちらりと見てみただけ。居心地は悪くは無かった。
父とは折り合いが悪いわけではなかったが、単に都合がつかずに会えないことが多かった。しかも、母がおらず二人きりとなると、あたしの結婚以来初めての機会であった。
父はこれまでの抗がん剤治療を振り返っていた。あたしに手帳を見せながら、これが最初の検査の日、これが投薬を始めた日……と。母の乳がんが発覚して6ヶ月。父にとってはどんな道のりだったのだろうか。
手帳には、祖父母の家のことも書かれてあった。祖母が亡くなり、一人になった祖父の介護の手続き関係を、父はいくつか引き受けていた。エアコンや空気清浄機といった家電類も父が用意したのだが、祖父は使い方がまるで解っておらず、コンセントを抜いてしまうのだと嘆いていた。
ところでサキはいつ復職するんや、と聞かれたので、ありのままを伝えた。主治医からは来年1月からのオーケーが出たが、会社からは4月からと言われており、まだ調整がついていないと。父はどちらの案に賛成するでも無く、休職制度を使うことに後ろめたさを感じすぎると上手くいかなくなる、割りきって利用しろ、というようなことを言ってくれた。そういえば、父はうつ病になっても休職しなかった。もう10年以上前のことだ、まだ制度が整っていなかったのだろう。妙な言い方だが、今の時代に病気になってまだマシだった。双極性障害という単語は浸透していないが、精神病について世間が比較的寛容になりつつあるから。
そうして話し込んでいると、時間の経つのは早かった。正午過ぎに医師に呼ばれ、手術の結果を聞いた。無事に成功していた。
運ばれてきたばかりの母の顔が、死人のようで一瞬ぎょっとしたが、足をパタパタ動かしていたので安心した。しばらくして、話せるようになったときに、手術中は夢を見た?としょうもないことを聞いた。見たような気がする、と母は微笑んだ。

双極性障害と診断されるまで 03

 初めてリストカットをしたのは、高校生のときだった。

 高校でも運動部に入ったあたしは、またもや下働きをしていた。その競技に愛着なんて無かったし、向上心も無かった。ただ、友人たちから見離されたくなかっただけ。居場所を確保しておきたかっただけ。高校生にもなるとスクールカーストはよりキツいものになっており、運動部のサキちゃん、という所属が無ければ、あたしみたいに容姿も学力も良くない生徒は生き残っていられなかった。

 毎日毎日、部活を辞めたくて仕方が無かった。けれど、ニコニコ顔で何でもない風を装うことが身に着いてしまったあたしは、結局それをしなかった。そして、仮病か何かで休むこともできなかった。部活では、過呼吸になっても、捻挫をしても、練習に出てくることが評価されていた。あたしは無駄に丈夫なので、そもそも身体に異変が起きるということが無かった。身体を壊しても練習している友人を見て、行きたくないのはただの甘えなんだと自分に言い聞かせた。

 それと同じことを、あたしは社会人になっても続けていた。多少熱が出たくらい、頭痛があるくらいでは休まない。休めない。会社を休むには、もっと身体が大変なことになって、それなら休めと言われる程の大惨事でないと駄目だと。そんなわけで、車道にフラフラ飛び出しそうになったり、ホームの向こうを見つめていたりした。実行しなくて本当に良かった。

 実際の所、リストカットをした理由というのはよく覚えていない。今の自分が考察するに、誰かに注目されて、構って欲しかったのだと思う。こんなことをするなんて、辛かったね、痛かったね、もう部活も学校も休んでいいんだよ。そう言われたかったのだと。しかしあたしは、リストカットの痕を誰にも見せなかった。やった後で、どうにも恥ずかしい気持ちに襲われたからだ。弱い自分がここにいるのだと、認めたくなかった。

 それから、OD(オーバードーズ)もした。父の睡眠薬を勝手に飲んだのだ。しかし、ごく少量だったので、一定時間幻聴に悩まされるくらいで済んだ。不思議と父に叱られた記憶は無い。悲しまれたような気はするが、ハッキリ覚えていない。

 どんどん自傷行為が増えていく中、自殺や精神病などの暗い知識も増えていった。それは言わずもがな、インターネットを自由に扱うようになったからだ。同じように自傷行為をしている人のホームページを見て、多少なりとも安心した。自分より症状の重い人を見たときは、まだマシだと優位に立った気もした。

 高校三年になり、部活を引退してからは、とりあえず大学受験の勉強を始めた。周りの友人は、美容師やネイリストになりたいと言い、専門学校を受けていたが、あたしは特に目指す道や夢なんて無かったのである。そのことについては当然のように馬鹿にされたが、他に行くあてもないので、いつも通りの笑顔でやり過ごしていた。

双極性障害と診断されるまで 02

 生き辛さを感じていたのは、中学生の頃からだったように思う。

 あたしは当時の友人に無理やり引き込まれる形で、運動部に入った。うちの中学は、弱いくせに練習だけは過酷で、水を飲まずにランニングやウサギ跳びといったことをやらされていた。運動下手なあたしは当然レギュラーにはなれず、下働きばかりやっていた。それでも辞めなかったのは、「逃げたら負け組」「逃げるのは良くないこと」といったスポーツ根性に洗脳されていたからである。

 スポーツをすることで、心身が鍛えられる。そのこと自体、全面的に否定するわけでは無い。受験や就活を乗り越えられたのは、少なからずそれが影響したのかもしれないと考えているから。

 しかし、「逃げない心」を持ちすぎてしまったのが、あたしにとっては良くなかった。人生には、逃げてもいい瞬間なんていくらでもあるし、逃げないことが必ずしも美徳とは限らない。逃げるべきタイミングでそうできず、結局心身を壊してしまったのが今のあたしだ。

 そして、中学時代は、友人関係も良いとは言えなかった。酷いいじめを受けたわけではないが、いわゆるスクールカーストでは下の中。容姿や仕草、持ち物を馬鹿にされ、見下されていた。一番惨めだったのは、勇気を持って反抗してみたとき、あんたが怒っても全然怖くない、むしろ可笑しい、と言われたときか。最終的にあたしは諦めて、何を言われてもヘラヘラ笑っているようになった。

 また、この頃に父がうつ病になった。中学生のあたしは、うつ病というものが理解できず、父の頭がおかしくなってしまったのだと怯えていた。幸い、数年で症状は治まり、今は薬も飲んでいない。皮肉にも、あたしのよき理解者となってくれている。だが、夜になるとうめき声をあげて苦しんでいる父の姿は、今でも忘れられない。

 そうした中学時代を送り、高校受験は無事に志望校に合格した。ただ、その志望校というのが、あたしを馬鹿にする友人に合わせたところだった。ここで友人との縁を切り、他の高校へ行けていれば、と思うことはある。選択肢はあったのだ。そして高校時代に生きづらさは益々酷くなった。

双極性障害と診断されるまで 01

 あたしは2016年の3月に双極性障害と診断された。

 うつ状態が続き、仕事に行けなくなり、夫に連れて行かれた診療所で。

 診断が難しいとされるこの病名が一発で付けられたのは、以下のようなエピソードをあたしが話したからである。

 

「大学生のとき、心療内科に通っていました。当時は自傷行為パニック発作、不眠といった症状があり、ボーダー(境界性人格障害)気味だと言われたこともあります」

 

 当時のことは、このブログを遡ると実は出てくる。感情剥出しで、口語で書かれているので、読み返すのはけっこう恥ずかしい。整理もされていないので、非常に読みにくい。「双極性障害」のワードでこのブログを検索されたり、ツイッターから来て頂いたりした方からすると、もっと分かりにくいかと思う。

 そこで、自分なりに過去を整理する意味も込めて、双極性障害と診断されるまでのことを振り返って書いてみることにした。もしよければお付き合いください。

義母とは今のところ非常にいい関係を保っている。義母はまとめスレで見たような姑感バリバリの人ではなく、例えるなら女子高生。可愛いものやマンガが大好きで、家事はするが面倒なことはしない。ついでに言うと美人。
ずっと娘が欲しかったとのことで、あたしのことは可愛がってくれている。でも、深入りはしない。病気のことだって、変に励ましたり心配したりしていなくて、あるがままで接してくれている。有難い。
そんな義母から譲り受けたミシンは、20年以上前のものなのによく動く。夫曰く、そんなに使わなかったから綺麗なんだよ、ということなのだけれど、物持ちの悪いあたしとしては、保管状況の良さにびっくりだ。ただ、あたしの技量が追い付いていないため、大したものは作れない。シュシュと巾着袋で精一杯である。上手く作るにはある程度数をこなす必要があるため、家の中には布小物が増殖してしまった。義母にプレゼントすればいいかな、と思ったのだが、こんな下手くそなもの恥ずかしいという気持ちが勝り、まだまだ実現できないでいる。